Saturday, 2006/8/26 - 太陽

芝居や脚本で感じたのは徹底された「ずれ」。
わざとはぐらかしているのか、何かのメタファーなのか。
例えば、

「あなた方が広島に原爆を落として以来、私たちはケダモノに襲われると脅えました」
「私は命じていない!真珠湾を襲ったのもケダモノでは?」
「私の命令ではない。そのような命令をくだしてはいません」
「ひとりでに起こったわけだ」

とか、

「承知しました。ところで、私は例の俳優に似ていますか?」
「分かりません。私は映画を見ないので…」
(先刻映画俳優の写真を眺めている場面があったが)「私も…じゃ!」

とか

「陛下、連合国側の指令に従われますか?」
「あなた方の、どのような決定をも受け入れる用意がございます」
(通訳が、司令官に)「陛下は慈悲を請わないそうです」

(引用はすべて映画パンフレットより、()括弧は編者注)
とか。葉巻をもらう、ヘイケガニの解説から戦争の発端に至る考察へのスライド、皇后という役に対しての違和感、エンディングのワーグナー(たぶん)。きっと全部に対して何かしらの意味があるんだろう。鶴の場面やラストシーンの解説のように。でも、あまり謎を解き明かしたい気分にならないのは、それを知ったところで、作品のテクニックを知る手だてにはなっても、現実問題(戦争責任!)の解決の糸口にはならないのを知っているから。
フェードアウトで終わるのも、天皇個人を静かに追いかけるストーリーでなかったら、あるいは日本国内製作だったら絶対に非難されるところ。そこが嫌でも自分が日本人であることを意識させた。

パンフレットを眺めていると、どうもこの映画がカラーだったのかどうか記憶が曖昧になる。全編にかかっていたフィルターが記憶をおぼつかなくさせる。